昭和43年7月9日  朝の御理解



  御理解50節ね「とかく信心は地を肥やせ、常平生からの信心が肝要じゃ、地が肥えておれば肥えをせいでも一人でに物が出来るようなものぞ」

  問題はこの「一人でに物が出来るようなぞ」というところがこれはもう皆のお願いでるとこう、ね、それにはならどういう信心が必要かと言うと、「とかく信心は地を肥やせ、常平生からの信心が肝要じゃ」というところになってくるわけですね、そこでうんなら「地を肥やせ」ということはどういうことなのか?と、ね、地を肥やすということは、あ~、どういうあり方、信心にならせて頂いたらおかげを頂けるだろうか、それにはね、誰にでも一つの、お~やはり好みというものがある、ね、例えば同じ二十歳代の人であっても、うんまあ片一方は、同じ着物がわを選ぶでもね、赤系統の好みの人もある、かと言うとこの青系統を好む人もある、これは同じ年代ですよ、けれども好みなんだから、ね、ですからその、お~、私好みというのがそれぞれにやはりあるけれども、その好みということが、ここに御理解49節にね、「信心は相縁機縁」とありますですね、ですからこの合楽ではね、やはりどうしてもこれは例は例を持って集まると言うですかね、例えば先生好みの人が集まっておるということ、めぐりのお~例えば種類を分けるならですね、私が赤のめぐりを持っておるならやはり皆も赤のめぐりを持っておるということ、これはあの低俗の違いですね、けれどもやはりあの、だから良い物ももし私にあるとするならば、その良い物も皆が持っているんだということですね、それでここでまあ言われる事はやはりあの、例が例を持って集まると言ったようなことはやはり真理ですよね、結局私の真理に集まってくる、私の言わば(?)に集まってくるということになるわけ、だからこそ、ならあ~、佐賀あたりから、久留米あたりから、ね、福岡あたりからまで沢山の教会を言わばのりこえ、またはその通りこえてからお参りをしてくるというのは、そういうその、同じものが呼び合うのです、引き合うのです、それが結局相縁機縁だとこういうわけですね、ですからあの、う~、結局私と同じような物を持ってるのですから、結局ならここでは私がおかげを受けておるという事実を皆が見たり聞いたりしたら、結局なら私好みになれば、私もおかげが受けられるということが分かるわけですね、そこでうんなら、まずここでうんなら、クマガエならクマガエ、波多野なら波多野という人の自分好みというものをまず捨てることの稽古に、いわゆる、その気にならなきゃいけないということになるわけですね、そこでうんなら、御理解48節に、い~、ありますように、「我子が、我子の病気でもかわいいかわいいと思うてうろたえるといけんぞ、言う事を聞かぬ時にままよと思うてほっておくような気になって信心してやれ」と「おかげが受けられる」とおっしゃるようにその、我子が病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるということは、とてもこのような病人を、このような、あの元から、その枕元から放れられるはずがない、それが親の情だとこう思うのは私の思いであり、私好み、好みなんだ、ね、そこであの言う事を聞かん時に、その、かまわんといったような心ですかね、そういうようなあのままよという心で、枕元を外して、神様に縋ってやれとおっしゃる、おかげを、信心してやれとおっしゃるから、神様へ向かってくるといったようなことは、もうここですでに、自分好みから神様好みになってるわけですね、そういうようなことがね、地を肥やすと言うか、様々に色々にあの、地を肥やすとか、根を肥やすことに言うてまいりましたよね、けれどもどういうようなことが地を肥やすかということはね、あの、言われてこなかったんですね、だからなら、どういうような信っ、それは自分好みから神様好みへなることが地を肥やすことなんだ、ね、自分好みから神様好みへなることから、まあ言わば地を肥やすことになる、次ぎの、なら今度は御理解第47節を頂くと、「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」とおっしゃるようにね、これを例えば、あの、薬れ祈れにするならもう自分好みです、自分の思いを先に出したわけんです、それをおいて、ね、神様にお縋りをしてお伺いをして、そして医者にもかかる薬を飲む、これはもう自分の好みから神様好みになってるだろう、ね、そういうようなことが地を肥やすのです、そのことに徹することがね、うん、そういうようにその、お~、地を肥やすということは信心に、この焦点を置かしてもらう時に、例えばこれを、お~、私共の先達である先輩である先生方の信心に、それをますと、お~どういうことになるかと言うと、久留米の初代なんかは、あの「天地神明に不足を言わず」というような生き方であった、ね、いわゆる自然に起きてくるその問題といったようなものを、ね、取り組まれる態度というのがですね、不足を言わずにしかもそれが信心辛抱で受けて行かれたと、もうこれは、地が肥えんはずがないですこういう生き方だから、ね、例えばならこれが福岡の初代の場合だって同じ事、ね、「馬鹿と阿呆で道を開け」とこうおっしゃるようにその、もう本当に大変その、地がしゃんしゃんとしたお方であったらしいですから、ん、本当に激しい思いをされるような事もあったろうけれどもね、そこんところをその、馬鹿と阿呆で、なりきってその修行されたわけですね、それはやはり現在の福岡の御ヒレイといったようなものが、一人でに物が出けておるようなおかげの元がそこに出けてあった、ね、例えば甘木の初代でもそうでしょうが、ね、本当にあの、お~「私は人形で神様が人形使い」というような、おっしゃい方をなさったんですね、ですからそれは手を上げとろうがええ、足を上げとろうがええ、という自分の思いが先に出る事もおありになったろうとこう思う、その証拠にあの、あれは甘木の何十年かの開教式の時に、ご挨拶があった時にですね、あの~、「私が何十年間の信心でこれだけのものが甘木に出けたというのはね、安武松太郎が願うことが願うた通りになっとったら現在の御ヒレイはなか」とおっしゃったそうですね、ね、「私の願いは願い通りかとも聞いておっって下さったとするならね、現在の甘木の御ヒレイはなか」て、「右と願っても左、左と願っても右になっておった事が、現在の甘木の御ヒレイじゃ」とおっしゃった、ね、その辺が分かるでしょ、ね、だからなくなるでも神様が「手を上げろ」とおっしゃりゃ手を上げられた、「足を上げろ」とおっしゃりゃ足を上げられた、「回れ右」とおっしゃりゃ、もう本当に回れ右の出来ない時でも、回れ右をなさったわけですよね、ですからあの非常に人から非難がおありになさったですね先生の場合は、もう神様任せに動かれたからなんでしょうね、これは私達もやっぱり通ずる事がありますねそういう事は、ね、けれどもいよいよ安武松太郎の心は肥えた上にも肥えてきたわけです、ね、ですから一人でに、現在ああして物が出けておるようなおかげが頂きなさったわけなんですよね、うん、そういうにその、え~、「とかくに信心は地を肥やせ」とおっしゃるから地を肥やそうという風に、こちらが例えば願いを持つと言うか、あ~、持つ事は、只今のような相縁機縁から、ね48節、47節に感じられるのは、中から何時の間にかこう、地が肥えてくる、おかげを受けてくるわけですね、ただそういうことになってくると今度は神様もですね、いよいよあの地を肥やさせようとする働きが始まるですね、ね、こちらも「肥えたい」と願うでしょ、ね、それかと言うてなら私共はやっぱり願わなきゃおられない、やはり自分好みの事をですよね、痛かりゃ痛い痒かりゃ痒い願わにゃおられないのですよ、ね、けれどもそれは神様にお任せして、願ってもですね、それも「牛馬の事にいたるまで、ね、五穀豊穣は言うにはおよばず、商売繁盛の事から、身の上なんなりとも実意を持って願え」とおっしゃることだから、あの~、願いもいいですけれどね、その願った先のところが、私はその、地え、地の肥える信心というものがね、いつも心掛けられときゃにゃならないということ、ね。
  それでその、お~、昨日ある人の、熱心に信心が出けておる、ある事件事なんですけれども、もう問題がこんがらがった上にもこんがらがってそのおかげにならんのですよね、だからねどうしてじゃろうかと私も思うくらいですよね、もう何年なっ、なるわけなんですよそれが、もう解決しないでおることがですね、その願いは切なんです、けれどもおかげにならんのですよ、そしたら神様が昨日ですね、あのう~ん、平口が焼酎に付けられとるとっとこ頂くとですよ、ね、しかもその平口がですねまだその、焼酎ん中でこうのた打ちまわってるようなところです、ね、いわゆる毒気がどんどん焼酎の中に出ておる時なんです、ははぁ~この人が持っておる毒気というものがですね、こういう風にして抜けて行きよるんだなと、二年か三年もかかって行きよるけれどもですね、その間に切実に願って行かれる内に分かるところが分かって行ったりですね、いよいよ今までの例えば25度の焼酎じゃったつが40度にもなるようなですね、言わば平口を付けても良いような、アルコールの有り難さというものが、段々出けて行きよるわけなんです、ね、ですからそういうその、お~、神様のご都合というのがですね、いよいよあの地を肥やさせござることが分かるでしょうが、ね、わざと二年も三年も長引きかせながら、地が肥え、本人の地の肥えていくということいよいよ有り難き勿体無きが今までよりも高度なものになって行くことを願いとして、おられるということが分かります、ね、ですからそういう神様の働きと同時に私共の願いとしてですたい、どうぞ地が肥えるような信心、ね、そこには、肥えをせいでも一人でに物が出来るといったようなおかげになってくるわけなんです、そういうようなおがけを頂くために、自分好みからいよいよ神様好みに、ね、まっそれをみじかに言うならば、親先生好みの信心というものが身に付けられてくるということがです、47節48節に分かる、同時に49節によって、私共は、こう例えば(?)さんでも、ね、そのあらたかな(?)て、もう相縁機縁によって結ばれておるということ、ね、私の持っておるものは皆さんも持っておられる、ね、そういうものが引き合う呼び合うのです、ね、そういう、例えば縁がね、いよいよ(?)なものに終わらず一つ味なものになって行くようなおかげ、そういうおかげを頂きたいというわけなんです、それを今日はたっぷり30、30分ちょっと以上ぐらいかかりましたでしょ、ようにその頂いたんですけれどもね、今日はもう私がもう一遍頂きたいような御理解でした、今日もだいたいあらすじは只今のようなことでしたけれどもね、ね、有り難うございました、ならおかげ頂きましょう。